2017.9.4
エロい、ダメ人間が人気の秘密。若い常連客で賑わう70代店主の店。
サイアクの時期に鳥へいの常連になる
筆者が鳥へいの常連になったのは、
1999年のことだった。
「嫁が子どもを連れて出て行った」
「マンションも売られた後で、
通帳に一ヶ月分の生活費しか残されてなくて、
風呂ナシの四畳半のアパートに引っ越した」1年後のことだ。
社交的な奥さんと職人肌の一平ちゃんの
組み合せが地元のお客さんを集めていたので、家族客も多く、
二階の座敷、ファミリーコーナーは、
週末は、何組もの家族客で大繁盛だった。
話は少し逸れるが、
普通預金の金利が3%くらいあった時期は、
オジイちゃんの退職金を例えば3000万円銀行に預けておくと、
一年に約90万円の不労所得が発生した。
その貯金を管理するオバアちゃんが、
週末、息子や娘、孫を連れて、外食するのは普通の風景だった。
「今日は、おばあちゃんが鳥へいさんでご馳走しますからね」と、
おばあちゃんが宣言すると、お嫁さんは家事から解放され、
こどもたちは普段食べられない焼鳥や釜飯が食べられる。
おとうさん、おじいちゃんは、チョイと一杯。
そんな昭和の中流家庭の風景は、90年代後半まで残っていた。
(昭和を感じる二階座敷/かつては家族連れて賑わった)
一平ちゃんの話に戻ると、
しかし、「嫁が子どもを連れて出て行った」後は、
それまで頻繁に通っていた常連客、家族客が、
自然と鳥へいを避けるようになっていたらしく、
だんだん雰囲気は暗く、閑古鳥が鳴くようになっていた。
私が一平ちゃんと親しくなったのは、そんな時期。
ある意味、鳥へい史上サイアクの時期といっても良いだろう。
通うようになった理由は、
世田谷あたりでは珍しいホッピーがあったからだ。
いまでこそプリン体ゼロなどの健康志向もあり、
女性の愛好者も多いホッピーだが、
当時は、まだまだ、下町の飲み物のイメージが濃かった。
近くのすずらん通り商店街にあった
塩原湯の熱い湯に浸かった後、
ホッピーを飲みに鳥へいの暖簾をくぐる。
カウンターに座ると、いつも真顔でこう言われるのだった。
「デッドシティーにようこそ」
厳密に考えると意味がわからない。
当時の経堂西通りはまだまだ活気があり、
八百屋、かしわ(鶏肉)屋などの小売店も元気で、
梅乃寿司、錦華菜飯、キッチンぼん、からから亭、
なべ、などの今はなき名店が盛り上がっていた。
デッド(死んでいる)のは、鳥へいだけだったのに。
しかし、そんな静かな店内が居心地良くもあった。
焼き鳥でホッピーを飲みながら、
誰も来ない店内で、一平ちゃんの話を聞いた。
「いま人生最大のピンチでさ。
どうすりゃいいかわかんないよ」と、よく言っていた。
実は、その頃は、シャッター商店街が全国に生まれる
商店街受難の前夜のような時代だった。
消費税は3%から5%に上げられたのは、1997年。
2000年に入ると、
大規模店舗規制法がどんどん規制緩和から撤廃に。
商店街の近くにショッピングセンターや
大資本系のチェーン店がバンバン出店して、
鳥へいのような従来型の個人店の
商圏にガツガツと食込み奪いはじめることになる。
「どうしようもなくなったら、近くの学校の学食かどっかで
働くしかないな」というのも一平ちゃんの口癖だった。
そんなことを聞きながら私は、
「この店がなくなったら、近場でホッピーが飲めなくなるな」と、
危機感を抱いていたのだった。
さて、どうしたらいいのか?
週に2、3回は、
一対一のカウンターで、一平ちゃんと深夜二人で話し合うようになっていたが、
ソリューションは意外なところからやってきた。