2017.9.4
エロい、ダメ人間が人気の秘密。若い常連客で賑わう70代店主の店。
会社をクビになり、人生を諦めかけていたのを焼鳥屋の親父に救われる
一平ちゃんこと長谷川一平さんは、
1946年に宮城県仙台市に生まれた。
地元の私立大学を卒業して東京の大手アパレルメーカーに就職。
しかし、子どもの頃から人付き合いが苦手な性格で、
喋るのが得意ではなかったにも関わらず、
配属されたのは、営業部。
花の大東京での社会人生活は違和感の連続だったという。
就職して数年すると、
世界は、第一次石油ショックに見舞われた。
その頃から仕事の環境が急に厳しくなった。
高度経済成長が終わり、
「つくれば売れる」時代も過去のものとなっていた。
にも関わらず、軍隊経験のある上司に「根性で売れ」と激を飛ばされ、
ノルマは増える一方だった。
同僚の中には、精神を病んだり、なかには、自ら死を選ぶ者もいた。
まだまだ「モーレツ」な働き方が賛美されていた。
33歳になった一平ちゃんは、人生に行き詰まっていた。
ずっと彼女もいないまま、
京王線・桜上水駅の近くのアパートに独り暮らし。
満員電車に揺られて通勤し、朝から晩まで働いて、
楽しみといえば、
駅前にあった頑固オヤジの焼き鳥と釜飯の酒場に
閉店間際に駆け込んで、遅い晩飯を食べ、ビールを飲むことだけだった。
仕事環境の悪化に伴い、日増しに愚痴が増えていた。
「辞めて田舎に帰ろうかな」という話をしていた頃は、
店のオヤジさんも笑って聞いていたが、
「生きてたって仕方がない」と同僚の不幸の話などを
愚痴りはじめると、オヤジさんもヤバいと思ったのか、
口は悪いながらも親身に相談に乗りはじめた。
1979年の秋風が吹きはじめた頃、
酔った一平ちゃんが「もう限界だよ」と、口にした。
すると、オヤジさんは、
「長谷川くん、いいから、もう仕事やめな。
君は、マジメだけは取り柄そうだから、
オレが紹介してやっから、銀座で焼き鳥と釜飯の修行しな」と、
踏み込んだ言葉を投げかけてきた。
次の週、上司に辞表を提出した一平ちゃんは、
オヤジさんも若い頃にいた銀座五丁目の店に修行に入った。
銀座でも有名な鳥ぎん本店。
十代の若者に交じって一から苦労の日々が始まった。
しかし、飲食経験のない一平ちゃんだったが、
寡黙に目の前のことに打ち込む仕事は、案外、性分にあっていた。
1年半で焼き場に立つようになり、
仕入れ、仕込みも含めた現場の全てを経験。
そして早くも3年後に独立することになった。
「ダメ社員だった自分が37歳にして一国一城の主になれる」
そう勢い込んで、当時、本多劇場のオープンを控え、
若者の街として人気が出はじめていた
下北沢に店を持ちたいと一番街の老舗不動産屋に足を運んだが、
予算が合わず、経堂の物件を紹介された。
1983年。それが「鳥へい」のスタートだった。
経堂に来たのは正解だった。商売は大当たり。
住宅街で食べられる銀座の味と、
オープン当初から繁盛し、収入が増え、結婚して家庭を持ち、
数年でマンションを買い、地元小学校のPTA会長までやった。
(ふぐ調理免許、茶懐石料理の師範の免状、本場フレンチのシェフとの交流も)
ダメサラリーマンだった人生が、大きく変わった。
その幸せは、15年ほど続き、
そして、15年しか続かなかった。